無題



 その季節には、道に木の葉がうっとうしいくらいに散りばめられていた。男の前で、まだ小学生くらいの子ども達が泥で汚れたさつま芋をスーパーのビニール袋に入れて「焼き芋、焼き芋〜」と楽しそうに歩いていた。しかし男はその子ども達に何を思うわけでもなく、子ども達の横を走り抜けていった。
 必死に男は走っている。まだ十八になったばかりで車の免許を取っておらず、仕方が無く男は走って目的地を目指していた。
 急いでその目的地を目指してどうなると言うわけでもないかもしれない。急いで到着しようが、ゆっくり時間をかけて到着しようが大差は無いかもしれない。それ以前に、到着した自分に何ができるかも分かりはしない。
 そこまで考えて、男は走るのを止めた。――そうだ、自分が急いでどうなる訳でもないのだ。わざわざ必死に走っていく必要も無い――男は汗を手の甲で拭いつつ、歩いて目的地を目指した。
「焼き芋って、焦げるとおいしくないよね」
「そうだね、焼き具合を間違えないよう気をつけなきゃね」



 男が歩き始めて三十分後に、男は目的地へと到着した。走っていればあと十五分は早く到着できたかもしれない。少なくとも十分は早かったであろう、という事をシュミレーションしつつ、男は目的地である白い大きな建物の自動ドアを抜けた。
 自動ドアの先は特有の匂いが鼻についた。包帯の匂いと言えばいいのか、たまに清潔な匂いと表現する人もいるが、何を持って清潔な匂いとするのか男には皆目見当がつかない。
 予め電話で聞いておいた番号の部屋へ男は移動した。


 部屋は静かだった。誰もいないと言うわけではなく、男の前には一人の女がベッドに居る。黒い長い髪を持ったその女は、男が部屋に入ってきてもただ自分の腰から足に被さっている染み一つ無い白い布団と、その上に置かれた白い紙を見つめていた。
 男は何と声をかけていいのか悩んだ。彼女の見ている白い紙が何なのかは男にも察しが着く。だからこそ余計に、何を言ってあげれば良いのか分からない。
 それは男の立場も絡んで、余計に分からなくなっていた。付き合っていて他に男ができて別れた、つまり元カレという立場。それもほぼ一方的に『捨てられた』側の男だ。更に言えば男は自分の両親と仲違いを起こしており、彼女の親元で寝泊りを、一応別れた後である今でも続けていた。どうしようもない複雑な立場は、男の頭に浮ぶかけるべき言葉を潰して言った。慰めの言葉は、彼女が他の男に走ったことで生まれた、彼女を許す事のできない気持ちが食いつぶして行き、今ここの場にいるはずの二人の男女の事についてなど、彼女の家に寝泊りしているが為に知ってしまった事実が踏み潰して行く。
 そして挨拶を含む雑談は、彼女の何も写さない目を見たとたんに言葉が喉から腹のほうへと見えない手で引きずり落とされてしまった。
「……よう」
 ようやく見えない手から逃れた言葉が男の口から出てきた。しかし女は何の反応も示さず、黙って自身の足元の方を見つめていた。
「大変だったみたいだけど、元気出せよ」
 食い残しの破片を繋ぎ合わせ、男は女に慰めの言葉をかけた。そしてそれ以上自分がかけられる言葉が無い事を察すると、黙って病室から出て行った。

 女の病室の窓が開いていた事に男は気がつかなかった。そして、女の体がベッドに強制的に固定させられていた事になぞ、勿論気がつくことも無かった。
 女の病室の開いた窓から吹く風が、女の見つめていた紙をめくった。びっしりと黒い活字で埋め尽くされた紙には、『流産』の文字だけが太字で大きく、目立つように印刷されていた。
 

 
 男が彼女が自殺を試みようとしていた事を知るのは、彼女が精神病院へと移動する事を彼女の母から聞かされた、病室を訪問してから二週間後の事だった。
「流産のショックかしらね、あの娘、元々小さなことでクヨクヨする娘だったから」
 彼女の母は、書類にボールペンでひたすら何かを書きながら言った。
「確かに、少し気にしやすい所もありましたけど」
 男は彼女の母が書いているものを正視できなかった。目のやり場に困った男は仕方が無く自分の携帯電話をいじりながら彼女の母と会話を続けた。
「まぁ、若者なら鬱病なんて一度は通る道じゃない? たまたま時期が悪くて精神病院に行く事にはなったけど、それは偶然だと思うわ」
 ボールペンのかりかりと動く音と、男がメールを打つ音だけがBGMだった。
「おばさん、俺、友達とちょっと遊んできますわ」
 男は立ち上がり、携帯電話を胸のポケットにしまいこんで玄関へ向かった。その時、ちらりと彼女の母の前にある書類を覗き見した。
 そこには、彼女の母と彼女の父の名前、そして母方の方には印が押された離婚届が置いてあった。
 男は、彼女の鬱病の原因の一つが貴方達の離婚であるなんて居候の身では言えないと判断し、言いかけた言葉を飲み込んだ。



 精神病院から女が退院した。女の両親はまだ離婚が決定しておらず、しかし一日に少しづつ、夫婦の関係に入ったひびが広がっていく事が男には見て取れた。不思議なもので、夫婦は特に言い争いをするでもなく、ただ無言で何のアクションも無いのに、明らかに二人の関係が悪くなっていった。話さないので、それを明確にする証拠は無いが、男は自分の感じているその感覚が間違っている気がしなかった。
 逆に、何か会話でもあればそのひびは埋まっていくような気もした。しかしこの夫婦はそれすら放棄している。というより、修復なぞしたくないのだろう。
 女はといえば、男が精神病院に様子を見に行っていた時と変わらず、瞳は何かを見るためというより、何かを映す事以外に機能していないようにさえ男には見えた。



「なぁ」
 男が女に話しかけた。女の瞳には相変わらず白い壁が映っている。
「……返事くらいしてくれてもいいだろう」
 男は少々苛立ちを感じた。畜生、これが元彼氏への対応って奴か?
 大体、俺の何処に落ち度があったって言うんだ?確かに俺は天才とかスポーツ万能とかそういうわけではねぇけどさ、こいつだってそれが分かってて、それでも俺をどこかで認めていたから付き合ってたんじゃなかったのか。それが何で突然に裏切られなきゃいけないんだよ。
 女の反応に苛立ちながらも、男は何とか彼女と会話をするために話題を模索した。
「そういえば、彼氏はどうなったんだよ?」
 考えてみれば、男は精神病院に見舞いに何度か行ったが一度も女の彼氏と会ったことは無かった。
 むしろ、彼女の病室に出入りしてたのは病院関係者を除けば恐らく自分だけだったのではないかと男は思った。
「流産までして、彼氏の方だって随分なショックだったんじゃないか?」
 その時、女が反応した。小さな動きだったが確かに今、男が言った言葉に反応し、体をピクっと震わせた。
「あの人はね、一度もお見舞いに来てくれなかったの」
 女は、振り絞るような声でそう言った。
「……だって彼氏だろ? 普通は来るもんなんじゃねーの」
「でも、来なかったの」
 男は、女の声が震えている事に気がついた。女の瞳は相変わらず白い壁を映しているが、その壁は震えて映っていた。震えて歪んだ壁が女の瞳には映っていた。
「彼ね、子どもが出来た時に、『堕ろしてくれ』て言ってたの。 だからきっと、流産を喜んでたんじゃないかな。 私は生みたかったのに……」
 なんて、酷い男なんだろう。彼女との子どもを堕ろすことを決断したり、そして彼女が流産のショックで精神的にも辛い日々を送っていた時に。そいつは胸をなでおろしてたってのか。
 そんな男を選んだ彼女自身にも問題があったかもしれないが。
 ……そして、俺は。そんな男より魅力が無いってのか。
 いや、もしかしたら彼女は判断を誤ったと今は思っているのかもしれないな。
 男がそう考えてる時、蟻が鳴くかのような小さな声が聞こえた。
 何を言っているのか、男は聞こえてきた声を集めて言葉に直した。
「……会いたい、会いたいよ」
 彼女は、誰かに会いたいようだ。そしてその名前は、俺の名前でもなく。
 親の名前でもなく。
 誰なのかは分からないが、少なくともそれは女の名前ではない。男と思われる名前だった。深く考えなくても、俺にはそれが誰なのか察しが着いた。
 そして察しが着いた直後に、俺は彼女にまた怒りを感じた。こんな怒りは初めてではない。彼女が俺に別れを告げたとき以来だ。
 何だって、彼女はこうまでされて俺ではなくその酷い男、つまり彼氏にすがろうとするんだ!?
 男は怒りが抑えきれず、そのまま彼女の部屋の扉を蹴飛ばして部屋を出た。



 苛々を抑えきる事ができず、男はむしゃくしゃした気持ちのまま家を出た。昼間のお天道様が男に突き刺さる。
 そこで男は、家のインターホンの前で家の表札とメモのようなものと交互に睨めっこする男を見つけた。自分と比べると大分遊んでいるようにも見えた。
「あの、どうかしたんですか?」
「あ、えーと。……さんの家はここでいいんでしょうか?」
「そうですけど」
「僕、この家の女の子の彼氏やってまして……」



 何でも、彼は迷った挙句、彼女と子どもを育てていくという決断をし、更にそれを自分の親にまで話していたそうだ。そしていざそれを彼女に伝えようとした所、仕事が急に忙しくなりどうしても時間が取れなかったそうで、ようやく仕事がひと段落して彼女に会おうと思い、電話をしたが不在。仕方が無く自宅の電話にかけ、そこで彼女の母からその事実を伝えられたらしい。
 何とか彼女のお見舞いだけでも行こうと病院を聴くと、彼女の母は『うちの娘が辛い時に放っておいた男なんて知った事か!!』と言ったそうだ。
 よく言うぜ。自分だって彼女が苦しい時にも離婚の書類を書いてたじゃねぇか。
 とにかく、彼は周辺の病院を捜し歩いたが、彼女を見つける事は出来なかった。
 どうやら彼女の母は、彼女が精神病院へと入院になった事は伝えなかったようだ。
 そして最後の手段と、彼女の家を名字で探し当てようとしていたらしい。

「彼女、いますか?」
 そう問われた俺は、少し悩んでこう答えてしまった。
「貴方には絶対会いたくないって言ってましたよ。 俺も会わせたくないですね」

 もしあそこで彼女がこいつと会えば、俺は彼女とよりを戻す事は絶望的だろう。
 彼女は心底会いたがっていたようだが、俺の中の独占欲は俺の脳に『それは絶対にしてはいけないこと』と言っていた。
 その一方で。
 俺の良心らしき部分は『彼女と彼を会わせない事こそ絶対にしてはいけない事』と言っていたが、俺の心は『そんな言葉は聞こえない』と言っていた。


「ねぇ、誰か来たの?」
 女が言った。
「いや、別に誰も?」
 男はこう言った。
「もしかして、あの人?」
 女が、声を震わせて言った。
 少しの間の後、男はこう答えた。
「そんなわけねぇじゃんか。 そいつの事なんか忘れろよ、これからは俺がお前を守ってやる。 守らせてくれよ」





 それから一年が過ぎ、男は女と付き合うようになった。女のほうはまだ精神的な部分が完全に健康とまでは言えなかったが、表情に時々笑顔が出てくるようにまでなっていた。 間違いなく回復しつつあると思い、男はその回復を喜んでいた。





「海が見たいな」
 彼女が突然そんなことを言い出した。 
 季節は冬で、少なくとも海水浴ではないだろう。しかし、冬の海と言うのも風情があると感じた俺は、特に迷う事も無く彼女と海へ出かけた。
 表情はいつでも明るいわけではない。彼女の表情の基本は暗い表情だが、それが逆に時折見せる彼女の笑顔を引き立てているようにさえ見える。
 彼女と最近の仕事の事をネタにしつつ、喋りながら海へと到着した。

 海に人は全く居なかった。夏のように騒がしいと海も華やかに見えるが、人の全く居ない寂しい風景は、俺達をそのまま飲み込んでいってしまいそうな、そんな気がした。
 あまりにも寒いので、俺は彼女を車で待っているように言っておいた。風邪でも引いたら大変なので、温かい飲み物でも買って来ようと思ったからだ。
 
 戻ってきた俺は、車のドアを開けようとした。そして気がついた、車のドアに鍵がかかっていることを。
 彼女にあけてもらおうと、車の中に居る彼女に目を向けた。
 彼女のひざの上には、母子手帳が一つ置かれていた。
 俺は唐突に、嫌な予感がした。少なくとも、良い事が起こりそうな空気ではない。
 持っていたコーヒーの缶で窓ガラスを叩き割ろうと、振り下ろした。が――
 缶は空を切っていた。車が急にバックをしたためだ。そして車は、一気に前方へといきおいよく走り始めた。勿論前方は海だ。鉄が入れば絶対に戻ってこれはしない。
 俺は車の後を追うように海へと飛び込んだ。人間の手で鉄塊を海岸まで上げるなんて到底無理だが、ならば彼女だけでも。
 しかし、俺の衣服は海水を染み込ませて重くなり彼女を追うことすらままならない。俺の目の前で車は彼女とどんどん暗い海の中に沈んで行った。
 そこで、俺は確かに見た。
 彼女が、俺に向かって微笑んでいた事に――



 俺は何とか、浜辺まで戻ってきた。重くなった衣服を引きずり、そのまま砂浜に腰を落とした。
 一体、何でこうなってしまったのだろう?
 何処で何が間違って、彼女が海に入っていったのだろう?
 俺は、何か硬いものを踏んでいる事に気がついた。見るとそれは、彼女の携帯電話だった。
 彼女の携帯電話には、一つの伝言メモが残されていた。再生ボタンを震える指で押した。「ありがとう」
 間違いなく彼女の声で、それは再生された。
 恐らく、最後の微笑みもそういう意味だったのかもしれない。だとすれば――

 俺は自分で自分を殺してやりたくなった。
 彼女の為になにをしてあげるべきだったのか、そんなことはよく考えれば分かるはずだったのに、俺は自分を優先した。離婚しようとしていた彼女の母を俺は軽蔑した。考えてみれば分かる、俺は彼女の母と全く変わらない事をしたんだ。
 もっと遡れば、病院での事。彼女を慰めてあげられれば、彼女も少しは救われていたかもしれないのに、俺は自分の裏切られた事を恨んでそれをしなかった。
 彼女をあの男とあわせていれば、少なくともこういう結末は送ることなく、今頃あの男と結婚して、ある程度は平和な家庭を築けていけたかもしれないのに。
 俺はその全てを否定して、自分の欲望のためだけに動いた。彼女のためを思うなら、出来る事はたくさんあったはずなんだ。
 しかしそれももう、出来ない。全ては後の祭りだ。

 本気で守りたいと思ったときには、守るべき者はいなくなっていた。
 全てが遅すぎたんだ。





 その手記を読んだ僕は、本を本棚に戻した。
 言い出せなかった言葉を喉から掴みだし、彼女の元へと届けるために
 僕は走った。




back